入院していた父が17日の木曜の夜から熱が高くなり危篤状態になりました。
金曜には絶対抜けられない仕事があり
仕事を終えて病院へ行きました。
すでに弟夫婦が付き添っていたのでとりあえず
一度家に帰りました。
その週の仕事がきつくてとても起きてはいられない状態でした。
次の日の朝、病院へ行き、夜通しついていてくれた
弟の嫁さんとバトンタッチ!
本当は昼前に病院に来た母が「今晩は私が泊まります」と言ったのに
数時間後には、めまいがする、足がふらふらだとか言いながら帰ってしまったのです。(前日から朝まで岩見沢に泊まっていたことは分かっています!!親戚もいないのに!)←後日これは宮の沢を岩見沢と言い間違えて言っていたことが判明しました!!
父の容体はすこぶる悪く、酸素マスクの下の口の中に
舌を押しのどの空間を広げるためのシリコンの器具が入れられています。
意識レベルが低く、弱って舌が下がりのどが詰まって呼吸が困難になっていたのです。(こんな状態の父を残し、母は「私の健康は私が守らなくちゃ。」と言って帰って行ったのです。)
この口の中の器具があまりに苦しそうなので、弟が容体が悪化するのを覚悟で先生に頼み、外してもらいました。外せば死ぬとまで言われましたが何とか父は生きていました。
体につながれている計器は、心電図、呼吸のグラフ、血圧
心拍数、呼吸数、酸素量です。
特に酸素の量は90を切らないように気をつけなければならないのです。
夜になって仮眠をとって戻ってきた 嫁さんと二人で付き添いました。
夜中の2時くらいから容体が急変。
呼吸数がほとんどない状態に。
心拍数も急激に落ちてしまいます。
見ていてもつらくなるほど必死に呼吸しようとする父。
意識はないと言われながら、声をかけると頑張って呼吸します。
呼吸を助けるために、のどを息が通った瞬間に顎をぐいっと引っ張ってみました。
するとのどの開きが大きくなり、がはっ!!と音を立てて酸素を吸い込みます。
気管にたまった血膿を吸引してもらいますが体をつっぱらせて痛がります。
ここまでしてみんなが頑張らせている理由
それは、夜中の3時ころ「お父さんはもうだめだから。」と電話で告げると
「ああ、そうかい・・・。朝一番で行くからね~。」と迷惑そうな声でいうと電話を切った母を待つためなのです。
「タクシー飛ばして来いや!!」と言いたかったけど
かけなおした電話は2度とつながることはありませんでした。
兄と、私と弟夫婦の戦いです!戦闘はすでに始まっているのです!
しかし、弟はべろべろに酔っぱらっていました。
辛い現実を受け止めることのできないやつなんです。
おやじ~~~おやじ~~~と泣きながらその辺に転がっています。
何の役にもたちません。泣きながら酔って眠り込んでしまいました。
(しかしこの後弟は目覚ましい活躍をするのですがそれは別の話)
心拍数がどんどん下がり始め30、28、17、5と減っていきます。
看護婦さんの見よう見まねで、胸を軽く叩きながら呼吸をうながすと
がはっと大きく息を吸い、酸素の量が増え、心拍数が戻ります。
しばらくすると血膿がたまり吸引。
そして小康状態が続いているうちに突然
心拍数が下がり始めます。
胸をたたく、さする、声をかける、呼吸を促す→もとに戻る
これを夜中繰り返しました。
兄と私と嫁さんと3人。
最悪のときはすべての数値がはっきりと0になりました。
もうだめか・・・と思った次の瞬間、心拍数が上がり始めるのです。
瞳孔はまだ収縮しています、これは瞳孔が開く前の段階だそうです。
時々目を覗き込み瞳孔を確かめながら・・・耳を酸素マスクに近づけ
息の状態、血膿のたまり具合を確かめながら・・・。
途中からたぶん誰の心にも浮かんだであろう言葉
「もういいから、0になって!!」誰も口にはしないけれど
じっと見つめる計器の数字・・・0・・・0・・・17・・・28・・・40・・・80・・・安堵と落胆
でも、とうの父親が生きようとしているのです。
ひたすら力を振り絞りのどをこじ開けようとしているのです。
結局顎を押し上げて息を詰まらせてその勢いでがっと吸わせたり
のどを刺激して吸わせたり、気道を確保する姿勢を若干変えてみたり
みんながあらゆる手段を使って呼吸を促し続け、時が過ぎるのを待ちました。
夜が明けるころにようやく熱も下がり、ひところの目を覆いたくなるような苦しそうな様子はなくなりました。
ものすごく美しい朝日でした。
弟は病室から出勤していきました。
ここで私は犬たちを山に連れて行くために帰宅。
山に犬たちを放し、遊ばせてから帰宅、犬、猫、めだか、野鳥の餌やりです。
ちゃこちゃんパパさんが心配してやってきました。
その少しあとの8時半、ついに母が病院に到着しました。
私も再び病院に入りました。
兄と嫁さんは母さんとバトンタッチ。
そのころにはほとんど死んでいるような状態の父になっていました。
あんまり様子が違うのでまた兄と嫁さんに電話。
二人はトンボ帰りでやってきて、弟以外みんなが集まりました。
もうこと切れてしまうぎりぎりのところで母を待っていた父。
目は見えていないようですが耳は聞こえているようでした。
何もせず、カバンの中身をひっくり返したり、まったく関係のない話をし始めたり、現実に立ち向かえない母。
「ほら、母さん、母さんを待っていたんだよ!声をかけてあげなさいよ。」
「話しかけてあげて!」
「なんでもいいから声をかけてあげて!」
なんど頼んでも動こうとしない母。
離婚して二人の娘を守り育ててきた母。
つっぱってつっぱって、強がって生きてきた母。
(父も母もお互いにバツイチの再婚なのです)
見かねたちゃこちゃんパパさんが「お母さん、泣いていいんだよ。こういう時は声を出して泣いていいんだよ。」と声をかけました。
それでも唇を震わせ、微動だにしない母。
「今声をかけなかったら一生後悔するからね!!」と半ば脅しのようなセリづを投げつけると
やっと「おおお・・お・とうさん・・くるしかったねえ」と声をかけることができました。
そして泣き始めました。
その時の涙は「やっと本当の心からの涙をながせたな。」と思えるものでした。
もうすでにほとんど死にかけている父は心臓マッサージをしてもかろうじて心拍数が上がるという程度だったのに、母が声をかけ、頭をなでると心拍数が戻るのです!!
「母さんがなでるだけでよみがえるんだよ!待っていたんだよ!!だから 話をしてあげなさい!!」
「もっともっと!」
「なんでもいい!海外旅行の話とか!」
この人たちはまともな会話をしないまま25年も一緒に過ごしてきたのです。
だから毎日毎日けんかの連続でした。
お互いの主張をするだけ。会話のキャッチボールはほとんど見たことがありませんでした。
そして今困っているのです。何を話していいのか皆目わからないのです。不器用なのです。
仕方なく私が話題を提供してあげました。
それを軸に話が弾み始め、重苦しい雰囲気だった病室が明るくなりました。
母の顔に笑顔が戻りました。笑い声が響きました。
そんな中で父を送ってあげたかったのです。
そしてついにその時がやってきました。
何をしても心拍数が上がらない状態。
痙攣的にグラフは跳ねるのですが そのうちにすべてが直線になりました。
ベッドの上には最後の最後まで力の限り生きた父の小さくしぼんだ姿がありました。
まるで蝶が抜け出た後の抜け殻のようでした。
涙のない、すがすがしい最期でした。
春にはお山の桜が見たい、キノコを採りたいと楽しそうに話していた父。
早く桜が咲いてくれるといいなあと思います。